◇◇◇ シリーズ「思い出話」【第5回】「これは、死ぬ!!」と覚悟を決めた瞬間 ( 4 ) ◇◇◇

社会人になって東京にて  

上顎頬骨切開手術で、鼻腔のスポンジの抜取作業は本当に死ぬ思い

 秋田県立本荘高校時代に上顎奥歯を抜歯していたが、高校から大学卒業までの8年間、抜歯後の穴が閉鎖されずに口腔内歯茎と頬骨内部(副鼻腔)が導通していたらしい。だから、トランペットを吹くと空気が鼻から漏れる、ご飯粒が時々鼻から出てくるし、歯磨きをやっては漏水する。上京して社会人になったら最悪状態となった。飲酒をした翌日は決まって口呼吸のために舌がざらざらとなり熟睡できずに自然と疲労困憊が続いた。都内の街歯医者にくと、そこでは治療が不可能といわれ東京歯科大学病院を紹介された。入院して最初に、上顎の抜歯後の穴を切開し縫い付け手術を何度か試みたが縫合が成功せず失敗。原因は頬骨内部(副鼻腔)が炎症を起こしており、切開縫合が困難ということだった。そこで副鼻腔内を洗浄することになった。そのオペというのが、まず唇の内側上部から頬肉を頬骨に沿って切開し、露出した頬骨に対して電動ドリルを使って直径3cm程に円形状の穴を開け、その穴の間を糸鋸で切り取り、円形状頬骨を一旦切除する。そして副鼻腔内部を洗浄し、再度頬骨を埋め込み縫合する。それから最初のオペと同様に歯茎の穴を切開縫合した。そこでやっとのことで閉鎖が確認できた。

しかし、生き地獄はその後に来た。入院最後に、オペ後ズーッと鼻腔に詰め込んでいた止血用スポンジの除去作業があった。担当医からシャーレを両手で持って鼻下に構えろと指示される。医者が頬骨内部にこびりついているスポンジをピンセットで抜き始める。スポンジが伸びると同時に副鼻腔内表面にこびりついたスポンジが引き剥がされ、脳みそが引き抜かれる感じ。血液がダム決壊の流出のようにシャーレに流れ出し、あまりの流出量に呼吸困難状態となる。完全にスポンジを抜き取るまで10分弱。まさに”死ぬ”思いだった。

「胃がん」の告知、手術成功とその後の狂い死に”寸前

齢39歳の大厄前に2度目のアブダビ赴任を言い渡された。赴任前の身体「ゼロ・オーバーホール」の意味で、人間ドックを受診した。バリウムを飲んで胃のレントゲンをやったのだが、通常15分程度の検査時間が予定を過ぎてもまだ終了しない。2本目の胃部弛緩剤の注射を肩にされ、最終的には45分もかかってしまった。後日、その結果を聞きに行ったら、直ぐに胃カメラ検査を実施し、胃壁からサンプリングもするとのこと。実際、採取できた検体数は予定の半分。その後、それら検体の検査結果を説明してくれたのが、米国帰りという若く色白の妙齢な美人の女医さん。一通りだが不明瞭な説明があって、私から「・・ということは、がんということでしょうか?」、女医「そう思っても結構です。ついては精密検査をする必要があり、希望する病院に紹介状を出します。そこで正式な結果を聞いてください」とつれなく、大宮の自宅近くの大学病院への紹介状を手渡された。

西武新宿駅近くのその健保組合からの帰途、「どうですか?社長!!」と呼ばれると同時に肩をたたかれて、ふと我に返った。「がん」という宣告で、「がん=死」、「うそだろう、なんで俺が・・」ということを堂々巡りに考えていた。突然の宣告だから現実を理解できていない。そこは、新宿歌舞伎町の飲み屋街のど真ん中、正午を少し回った時間帯。「何いってんだよ!今、がんを宣告されたんだ」と言うと、「見ればお若いのにそんなはずがないでしょうが、社長・・!」とニコニコ顔。「うるせー」と怒鳴って、しつこい呼び込みを無視して、JR新宿駅に向かう。もうこれは「俎上の鯉」の心境。もう悩むまい、がんで死のうがどうでも良いと腹を括った。

さて、胃がん手術当日。外科医4人、麻酔医3人体制で手術時間は8時間半にも及んだ。胃部全体の8割を切除。この際、ポリープのあった胆のうも切除した。術後に手術台の上で、遠くから看護師が「佐藤さん、手術はおわりましたよ、起きてください、何かしゃべってください!」と呼びかけている。覚醒すると同時に、英語でしゃべってやった。そうしたら手術器具の整理中の騒然としていた手術室が、それこそ水を打ったように「シーン!!」となった。その間、およそ10秒ぐらい。そして、英語と判った男性医師が「佐藤さん、冗談よしてよ!」と言って、やっと安堵と笑いが沸き起こった。翌日、中央集中診療室から一般病室への移動では、自分で歩けとのこと。「そんな滅相な!」と訴えたが、主治医は「最近は自力で治癒する傾向があるので我慢してくれ」とのこと。手術後の病理検査、臨床検査の結果、早期がんだったことが判明。主治医曰く「大学病院内でもこの程度での早期発見にはびっくりしている、知らずにアブダビの現場に行っていれば手遅れで死んでいたでしょう」。大厄前の39歳の時に、人間ドックで早期がんを発見されたこと自体がラッキーであり、まさに”九死に一生”を得た思い。

さて、術後3日目に、悪魔が来た。上司と後輩の見舞いである。常識的に早すぎる。二人とも秋田大学の先輩と後輩(本荘高校出身)だから、普段気の置けない間柄だ。案の定、始まった、私を入れて3人の掛け合い漫才。笑う。笑わせてくれる。しかし次第にこらえきれなくなってきた。縫合した腹部が痛くなって、点滴中の針やドレインのチューブも抜けそう。「ヒィー!死ぬ!死ぬ!殺される!助けてくれー!」と思わず枕元のナース・コールを押して看護士長を呼んだ。危機一髪、2人を追い出してもらった。

後日、主治医に「大量の喫煙、飲酒の結果としても運良く早期がんを切除できたことなので、佐藤家の後世まで戒めの見本として残しておきたい。ついては、切除した部分をくださいな」と申し出た。しかし、大学病院でも非常に珍しいサンプル事例なので大学病院の標本室にて保存するとのこと、その代わりにポラロイドカメラで撮った写真を頂くことになった。入院した日から喫煙はやめて今日に至っているが、酒はやめることはできない。酒が飲めなければ死んでも良いとは、すべての愛飲家同胞の意見でしょう。

1987年06月 米国カリフォルニア州

EXXONの”ベーカーズフィールド”ポンピングユニット

日石米国石油開発㈱デンバー駐在時(筆者34歳)

デンバーのダウンタウンの夕暮れ 奥はロッキーマウンテン

【寄稿】佐藤晶彦(BS51,BS53M)

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