◇◇◇ シリーズ「思い出話」【第6回】「これは、死ぬ!!」と覚悟を決めた瞬間 (最終回) ◇◇◇

兆候はかなり以前から

私はかなり小さい頃から、何度も死にそうな目に遭遇していたようだ。

幼児時代、よちよち歩きで箸を加えながら障子を伝っていたらスッテンと転んで、箸で舌を真横に7割ほど切断。粉薬で何とか完全治癒できたが今でも舌表面上にかすかに線が横断している。

幼稚園時代、囲炉裏のそばで弁当を食べていた時に、弟が不慮の所作で、五徳の上にかけていた薬缶を倒してしまい熱湯を右足首に被って大火傷。皮膚がメロメロとなったが馬油で治療。また、リヤカーが道路の石に乗り上げた弾みで、荷台に乗っていた私は放り出され、後頭部を地面に叩き付け大出血、今も「1円ハゲ」となって残る。

小学時代は、小学校の使用されていないプールに落下した。台風一過で増水していて木材などをプールに投げ込んで遊んでいたのだが、引き込まれるように落ちていった。元来泳げないので、沈んでいく途中に水の円柱が周りに形成されていく様子に初めて”死ぬ”と感じた。しかし、弟がとっさに細長い板を差し向けてくれてそれにすがって助かった。実は、私が生まれる前に兄が、ここで同じような状況で水死している。兄があの世に呼び込もうとしたのだろうか? 野球の練習中、同級生の素振りのバットが額に直撃した。それ以来、頭蓋骨のヒビが常人よりも長く発達し眼球部周辺まで達している。

中学時代、運動会の「人タワー」作りの練習時間に、私は頂上から2段目の2人組みを担当。頂上で立とうした同級生がバランスを崩して落下してきた。と同時に、私は放り出されて、後頭部から地面に叩きつけられた。気を失って目を開けたら皆が囲んで意地悪そうに笑いながら覗き込んでいた。どうも洟をたらしながらしばらくのびていた模様。また、石器時代の石斧を作ろうとして、それこそ鉄斧で手持ち部分の竹筒に縦に割れ目を入れようとしたら、鉄斧の刃が竹節の角を滑って握っていた左手甲をざっくり切り込んでしまった。放物線状の一筋の血流が噴出するほどの大怪我をしたが、すぐに包帯を巻いて医者に掛からず自然治癒ですませた。また、このほかに病院にも行かず自力で治癒させた怪我と災難は数えきれず。

社会人になっても、事故受難、災難の相は継続した。上流事業の石油開発事業に身をおいてペトロレアム・エンジニア(石油開発技師)となって、海外を赴任や出張で飛び回った。石油坑井の掘削仕上げ現場は、24時間操業の3K作業状態。そこが中東の洋上ともなると、掘削装置(リグ)上のすべての鋼鉄は卵焼きができるくらいの高温・高湿度になる。暑いからといって上着を脱いで裸姿でいると、ちょっとでも肌が鉄板に触るとまさに火傷状態。一度背中を火傷してしまい、唯一休養がとれる時間になってもベッドで眠ることができずに本当に心身共に衰弱しきった。地下から噴出する炭化水素流体が高圧力と可燃性、更には猛毒の硫化水素が混入されているのだからその執務状況は極限状態。

学生時代はちょっと違う思い出

ところで、一番血気盛んな高校時代3年間(本荘高校)および大学・大学院時代6年間(秋田大学鉱山学部)が目立った災難を記憶していない。むしろ大学院時代は、世間への貢献として警察から表彰を受けた記憶がある。当時私は間借りしていて、大家の子供部屋から小さい金庫を屋外に持ち出したコソ泥を、3月の昼の雪解け道を追いかけて捕捉し格闘となった。仰向けになったアノラック着衣の犯人の上に馬乗りとなって顔面に対し鉄拳パンチの連続。その最中そばに立っていた大家の親父さんが自転車を脇に置きながら「佐藤さん、どうした?」と声を掛けられてふと我に戻った。コソ泥の首を抑えながら、大家に事情を話したら大家の居間に連れ戻すこととなった。本人の言い訳を聞くと、最近になって刑務所を出たとのこと、土木工事監督をしている大家に仕事の世話をお願いに来たとか。しかし、本人は持ち出した金庫のことを言わないでいる。どうも話がおかしい、嘘をついているようだということで大家は警察を呼ぶことにした。刑事の事情確認から判明した経緯としては、犯人は玄関から声をかけても応答がなく1階の居間には誰もいないことが分かると、2階まで上がってすぐの部屋に入って物色を始めた。そこは大家の中学生の息子の部屋。その物色の最中に、向いの部屋の私が貯金箱を振るわれる音に気付き、不審がって布団から起き上って、そばにあったホウキを右手で何回か素振りをしてみた。その気配を察して、犯人、これはまずいと感じて逃げ出した。そこで私はパジャマ姿の裸足のままで屋外まで追いかけて後ろから倒して馬乗り格闘というのが経緯。連絡を受けて大家の居間に駆け付けたのは、刑事3人と、秋田魁新報社の記者1人だった。実はこの犯人、前科23犯の常習犯と判明。新聞記者は、夕刊にお手柄の私の実名入りでコソ泥犯逮捕の記事を掲載するという。それには困った。この事件は、昼の13時半ごろに発生しており、この時間帯は私が大学に行っていなければならない。「その時まで寝ていたと親に知れてしまうと叱責を買ってしまう、どうか本荘由利地方には掲載してくれるな」と平身低頭でお願いした。翌日の秋田市版には掲載を確認できたが、後で実家の新聞で確認したら掲載されていなかった。しかし、数年後に発覚したし時、父親には「相手が刃物を隠し持っていた場合は、素手はかなわないぞ。組み合うなどしないことだ。2度とやるな」と説教された。

もう1つの事例。学内の自分の研究室(鉱山学部2号館1階、油層実験室隣)で、修士論文作成に多忙な毎日を過ごしていたとある日、深夜2時過ぎに外の雰囲気が急に明るくなった。ブラインダーを挙げてみると教育学部の建物が煌々と火炎を映し出しているではないか。今居る自分の建物の後ろからのものを映し出していると判断し、その方向に駆けつけると、学内で一番古く由緒ある木造のサークル棟が燃え出していた。ほどなく駆けつけてきた男性が「あなたが最初の発見者ですか?」と近づいてきた。そしたらこの男性、偶然にもコソ泥事件の担当刑事ではないか。「なんーだ、あの時の佐藤さんではないか」ということで、第一発見者ということにされて、またまた数回にわたり警察に出向き、懐かしさが残る取り調べ室で状況説明をした。入学当時の1972年、全国的な学生運動が終焉しつつある時期に、学内に駐車していた車内にいた私服警官2名を学生達が発見し、学内自治を叫ぶ学生によって警官が車内に監禁状態となったときがあった。救出にあたって、秋田県警機動隊(隊長は確か全日本柔道選手権で優勝経験のある夏井さんだったか)が学内突入し、学生と小競り合いを目撃している私としては、忙しい時期に良くもまあ、警察当局に随分と協力をしたものだと感心する。

終わりに

以前居住していたさいたま市の大型団地の自治会役員会では、隣接する違法産廃業者(当然“反社会勢力”)への対策専門員として「環境専門委員長」を拝命した。この名称の委員長がいる自治会は日本では唯一ここだけとかで名刺も持たされた。更に、昼夜を問わず排煙禁止処分下の産廃業者だったが、最終的に業務停止処分になった直後なので前任者に「駅のプラットフォームを歩く時は後ろに気をつけた方が良いですよ」と助言される。結局、自宅の郵便受けが破壊されただけで済んだ。クワバラ、クワバラ。

30年前ぐらいからは現場業務もなくなって、15年前に現在の会社(日揮株式会社)に移籍し、もっぱらオフィスース業務が中心。しかし、上野駅の階段で転んでは左手首を骨折、列車内の三角形の吊り輪の角が当たって前歯歯折等々、受難は続いている。このように「修羅場」をくぐってきても、なかなか歳相応には見られない。以上の出来事は、ほんの一部だが、苦労は顔に出ないってことか。内心、忸怩たる思いがする。がしかし、銀座のママやホステスには、ズバリ年齢を当てられる。

◇ 直近の筆者のコメント ◇

実は本通は、10数年前に業界の法人団体(“石油開発情報センター”、ICEP)発行の旬報向けに法人会長から依頼されて執筆した記事です。しかし、当時、法人の担当者から、「経産省や財務省などの官庁にも発行されるものであるから、あまりにも品が良くなさすぎる」とのことで大半のエピソードが削除され、用語も当たり障りのないものに訂正を余儀なくされました。従い内容が表面的な表現に終始した結果となってしまいました。今回は、ありがたくも大学時代の友人・近藤充さんから紹介して頂き北光会東海北陸支部のHPに掲載される機会を得ることとなりました。坂本様、加納様には心から感謝致す所存です。この機に乗じて今回は原本に近い内容に校正し掲載させて頂きました。

ところで、母が私を生むときに3つのお日様が見えたと言っていました。短歌を趣味としていた母が好きな与謝野晶子から1字を頂いて私の名前「晶彦」となったようです。しかし、生まれる前に兄・姉の二人が水死と「はやり病」で相次いで死亡しており、私自身としては3人分まで生きらねばと念じて今日まで生きながらえております。胃がんなどのような「これは死ぬ!」という経験をしており、健康状態は決して万全ではなく、むしろ満身創痍の状態です。でも生きらねばと常々思ってまいりました。すると青年期40歳前後から他人の死相がほんのりと見分けがつくようになりました。例えば、美空ひばりが復帰してTVに現れたとき、彼女の唇をなめながら歌う姿に思わず「ひばりは近々死ぬな」と思わず言葉を発していました。その数日後に死去です。また、社内での執務中にやけにひどい咳をしている初老社員が在席しており、隣の同僚に「あの方は大丈夫かな。なんか亡くなるような感じがする」と小声で伝えたことがあります。やはり1週間後にご逝去の知らせが入りました。他にも事例がいくつかあります。しかし、悔やんでも悔やみきれないことは、日揮の社員がアルジェリアで殺戮された事件です。その中に本職と同年の宮城県出身の博士号エンジニアと、普段から資源開発事業の立ち上げを応援して頂いた技術系副社長がおりました。同年の博士は、私が日揮に転職するときに面談をして頂き入社を推薦して頂いた方でした。彼の下で資源開発事業を立ち上げ邁進していた時期でしたが、事件前にまったく「死」の兆候を感じ取れなくアルジェリア出張を止めることができなかったのです。残念至極です。慙愧に堪えません。

・・・どうでしたか?この時期にはもってこいの話題提供でしたでしょう。それでは諸兄諸先輩ごきげんよう。

筆者近影(2013年,60歳,オス猫の’ハリー’と共に)

【寄稿】佐藤晶彦(BS51,BS53M)

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