◇◇◇ シリーズ「思い出話」【第4回】「これは、死ぬ!!」と覚悟を決めた瞬間 ( 3 ) ◇◇◇

アブダビ市街にて  

立ち入り禁止地区への不用意な進入によりまたも自動小銃を突きつけられる

 アブダビ市街には、王族の居住区や機密の工場・プラントなどが点在しており、その入り口には必ず検問が配備されガードマンが立っている。ある日、後輩研修生2人を愛車のベンツに乗せて市街巡りと言って走っていた。どこかの工場敷地に入ったかなと思ったら、追い越して後方に停止していた乗合バスのフロントライトがフラッシングしているのに気がついた。我々には関係ないだろうとそのまま前進したが、バスの脇から、1台のジープがフラッシングをしながら走ってきた。やむなく停車。軍服姿の二人が我々に向かい降車しろとかアラビア語でしゃべってきた。下車してみてわかったのだが、二人とも拳銃を我々に向けて構えている。「シット! またかよ!」とつぶやく。言い訳の英語が通じない。何が問題なのかわからない。するとあのバスが走ってきて停車し、その運転手が間に入って話してくれた。その運転手が英語で我々に説明することには「軍人も私もエジプシャン、この敷地は立ち入り禁止、お前さん方はあそこの検問を受けずに無断で侵入してきた(とバスが停車していた箇所を示す)、威嚇射撃されてもおかしくない」、とか。その「射撃されても」との通訳にドッキリして、「えっ!ちょっと待ってモーメント!!」とばかりに示された方向を振り向くと検問所があった。実はその前にバスが停車していたので検問所が視界に入らず、片側道路を我々は通過してきたらしい。「それはすみません。我々のミスでした」と釈明の限りを尽くす。バスの運転手も我々の味方に立ってくれて、約30分後やっと開放された。エジプシャンの運転手には感謝の言葉を伝えて敷地を出た。後日研修生らの話だと私の顔面は真っ白だったらしい。

アブダビ市街にて

遂に一時留置場入り

夜中、アラビア湾の海岸に隣接する道路(片側2車線)を走行中、前方の交通ランプが赤を示したので停止ラインで停止した。するとすぐに左車線に7シリーズのBMWが静かに停止し、ずいぶんと空吹かしをして、私のマニュアル式メルセデス230Eを煽っている。運転席に白いカンドーラ(オバQ姿)を来た地元人が確認できる。恐らくシェーク(王族)系の裕福な人間と思われる。さあ、0-4(ゼロ・ヨン、約0-400mの競技区間でスピードを競うドラッグレース)の始まりである。性能的にはこちらが完全に不利であることは目に見えている。前方のランプが緑になった瞬間に、マニュアルのクラッチをドライブに切り替え、アクセルを目一杯踏み込んだ。こちらの車体重量が軽い分だけ、最初の数秒はこちらが早く車両の半分だけ前に出た。しかし、その後はBMWが流れるように左からベンツの直前に出てきた。更に、道路工事中のために、2車線から1車線になっている。両側は頑丈なコンクリートブロックが木材で繋ぎ合った状態の囲いとなっている。急に眼の前のBMWが消えたと思ったら、目の前にコンクリートブロックが立ちはだかっているのが判った。1車線が左方向に急カーブを切っていたのである。咄嗟に急ブレーキをかけるも間に合わない。“ドッカーン”である。体にけがもなく、火災も発生せず、「さすがベンツ!」と感心しながら動かすことのできないベンツから出て、損傷具合を確かめようとしていると、すぐに黒制服のポリスが駆けつけてきた。やけに早すぎる。すぐに分かった。当時トルコ大統領がアブダビを訪問しており、その警護のために市街域の至るところに警察が配置されていたのだ。英語のできないポリスに有無も言わさず助手席にいた同僚と共にパトカーに乗せられ、警察本部に向かうこととなる。

事情聴取者は、Yシャツ姿のエジプシャン。同じ年恰好のなかなかの好青年で、エジプト国内で政治運動をやったために当局から睨まれアブダビに亡命してきたと取り調べの前段で説明を受ける。日本人に対しては最善を尽くしたいが、今回は事故った条件が悪いのでそう簡単に釈放はいかないと、のたもうた。腰ベルトを外され、真夜中に留置場に入れられた。その時点では先に入っていたのが、アラブ人1人とインド人1人。高さ3mほどの天井で8畳を欠けるぐらいのコンクリート製部屋は、正面の鋼鉄製ドアに40cm四方の小さな鉄製縦面格子窓があって、片側側壁の高さ2mほどに、同じくらいの窓あった。それにクーラー1台と室内蛍光灯。何もすることが無いから、毛布にくるまって眠ることにした。実はこの時点で外界と一切連絡が取れないことになっていることがわかった。一緒に入った同僚は関西の石油製油所からの出向者であったが、彼の経験によれば、日本の場合は要望すると外界と電話連絡をすることができるとのこと。彼がドアを叩いて監視官に外との連絡をさせろと喚いてもなしのつぶて。私は、何もすることが無いので潔く毛布をもらって入口近くに寝た。数時間後、空腹を感じて起きてみると、なんと20人前後のインド人、パキスタン人、アラブ人、フランス人が奥の箇所で所狭しと縦膝ついて輪になって我々を「お気の毒に」といったような憐みの目で見ていた。モスレム社会は、金曜日が由一の安息日であり、我々はその金曜日の晩に事故っていた。日本に限らずどこも休息日の晩に交通事故数が多いみたい。週の通常業務・公務は、土曜日から始まるから、ほどなく事情聴取と審査のために1人ずつ呼ばれてはでいくが、それぞれ判決がくだったのか誰一人戻ってこない。イラン人のアブダビ最大の書店店長などは、幼児を一人ひき殺してしまったとかで神妙にしていた。我々のほうが刑は軽いと思っていたのだが、実は我々の方がそのイラン人よりも死刑に値するほど重いと言ってきたアラブ人がいた。思わず「ぎょっ! オーマイゴッド!」である。一瞬、砂漠の炎天下の牢獄の中で水も食糧も当たられずに死んでいく自分をイメージした。同僚はみるみる内に真っ青。私の顔もどうなっていたことか。結局我々だけが呼び出しがなく、部屋には二人だけとなった。本当に寂しさを感じた。

土曜日の朝に我々二人が単身寮にも会社にもいないと判ると絶対に探索にくるであろうと高を括っていたが、翌日も、再翌日も、警察の呼び出しもなければ、会社からの接触もない。4日目にやっと裁判長が面会するとのことで、事務室に連れていかれた。その事務室内を通過するときに、「あっ、佐藤さーん! こんなところにいたの? みんなで探していたのよ」と呼ばれた。振り返えると同じ会社の奥さん(私とは同期入社)とその旦那さんだった。その時を思い浮かべるに、どうも「やあー」とも「はい!」とも答えずに裁判長室に向かったような気がする。そこでも事情を聞かれただけで、また留置場に戻されてしまった。ところで、そこでは食事は出されない。どうも印パ系(インド人とパイスタン人)が外部から売りに来るらしい。来たら鉄格子を介して果物やサンドイッチなどをキャッシュで買うシステムとのこと。我々2人ともキャッシュを持ち合わせていなかった。留置中はいつも同室になった入れ替わりのインド人などから食べ物を分けてもらっていたが、その午後にはじめての食糧の差し入れがあった。さっきの奥方手作りによる日本食の重箱弁当である。ちょっと遅れて、会社の日本人上司が鉄格子に顔を出した。突然の訪問である。鬼の形相宜しく、私を睨んで、ぎゃあぎゃあ怒っている。しかし、二人の間に鋼鉄製扉があると、不思議とハイハイと聞き流すことができる。しかし、「なんとかするから」と言ってくれて帰って行った。

しかし、ここでLesson Learntを1つ。留置場内で観察していると朝晩に各国西洋人は、ランニング姿で鉄製縦面格子窓から室内を覗いては同胞が入っていないか必ずチェックしに来るのである。英国人も、仏人も、米国人もそうである。しかし、日本人は誰一人として覗きに来ない。何とか通信対策として、石油業界関係者と思しき西洋人(T-シャツから出た腕に入れ墨があるのが普通)に、知っている日本人や日本料理屋の日本人に手渡して欲しいと英語と日本語で会社名、氏名と現状を書いたメモを託したのだが、一度も成功したことがなかった。簡単に破棄されていたのである。彼の地では、西洋人は行方不明者や連絡不能者にすごく敏感になっているのである。覗いてみて同胞がいなければ同胞同士間の連絡網で「異常なし」との連絡がはいるとのこと。日本人会にはそこまでのチェック機能はないので、後日すぐ実行するよう日本人会会長に進言はしておいた。

さて、その夜である。警視総監が直接会うとのことで、本部内のきれいな月夜の中庭の方へかのエジプト人に連れていかれた。カンドーラ姿の中年男性が一人の制服男性と話しながら椅子に座っていた。我々が連れられて来ることが判ると、カンドーラ姿の警視総監は我々に向き直って「日本人は我々アブダビの国に良く貢献してくれている。他の西洋人などは日頃の生活態度が良くない。そのようにならないように日本人だけはますますアブダビに貢献してくれ。今回は、こうする。」と目の前で一片の罪状書類を引き裂いてばらまいてくれた。灼熱の牢獄の中の自分をイメージしていただけに本当にホットした。タクシーなど交通手段が容易につかめない区域だったとかでパトカーで送ってもらい、単身寮に帰ったら我々二人は糞尿の臭いが相当ひどかったらしい。丸々4日間風呂にも入れず、トイレは扉の外にあるものの、アラブ式であるためにトイレットペーパーなどはなく、水のホースで洗うことになる。手を拭く手拭い類もないため下半身や下足が濡れたままになる。その状態で奥の連中は、入口近くに座していた我々を跨いで行くかそばを通る。臭いが一層沈着するはずである。単身寮で待ち構えていたくだんの鬼の形相の上司は叱責することも少なめで「臭い、臭い」と喚くのみで最後は「早く出て行ってくれー!」。 しかし、我々の救出に対して、日本人スタッフの力だけではほぼ無理であり、我々の会社のアラブ人スタッフが政府や王族系の「つて」を使って救出に協力してくれたと、同僚のエジプシャンから聞かされた。本当にシュクラン、シュクラン(ありがとう)です。

2001年06月,アブダビ市役所にて,経済産業省環境ミッションに同行 筆者:中央奥(48歳)

2001年06月頃,JODCO本社にて,NHK ‘プロジェクトX’の撮影時
中央後方の青いYシャツ姿が筆者(48歳)

【寄稿】佐藤晶彦(BS51,BS53M)

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コメント

  1. 坂本憲仁 より:

    NHKのプロジェクトXにもご出演とは!灼熱の砂漠でのご活躍・・・漢の仕事ですね。