◇◇◇ シリーズ「思い出話」【第9回】極楽とんぼ ~風任せ人任せ~ (3) ◇◇◇

私の思い出話(極楽とんぼ ~風任せ人任せ~)

出光興産入社の頃

1977年、修士論文のフィールド角館の下宿屋に同社から電話があり、急遽出光東京本社で入社面接を受けることになった。

夜行列車で上野に着き、当時東京駅地下にあった東京温泉で身を清め、番台のおばちゃんに頼んで慣れないネクタイを結んでもらった。東京駅丸の内側を出て入社担当者に聞いた行き方のメモ通りに日比谷通り沿いに本社に向かったのだが、目印の「東京会館」と云うパチンコ屋がない(秋田では〇〇会館はパチンコ屋を示す)・・・最初から散々であった。

幸い採用され、まず海外勤務の可能性の高い出光石油開発㈱へのお情け入社ということで、張り切って出社した。しかし、直前に全くの不要な人材と判断され(スキルが無いとバレタらしい)、員数合わせの暫定措置として開設されたばかりの出光興産新燃料室へ盥回しとなった。

暫くは千葉製油所製油2課(輸入原油の精製処理)に預かりとなり二ヶ月程直勤務(8時間3交代)を経験した。生意気だったので、得体の知れない新設の新燃料室への配属となりやりたい仕事が出来ないのなら、新入社員研修中にさっさと転職しようと思った。しかし、三食・風呂付の魅力は捨て難く、加えて同S課長(後年、中央研究所長)から「お前は新燃料室(丸の内本社勤務)なぞには向いてないことは断言できる、俺がここで徹底的に製油所運転員として育ててやるから千葉に残れ」と懇々と諭され退職は断念した。ところが、三ヶ月間工場勤務を謳歌していたところ、突然に人事部から新燃料室への移動を命ぜられた。

当時、新燃料室は第一次、二次の石油危機を経てエネルギー源の多様化を図るべく総合エネルギー会社として、石油代替エネルギー候補を選定しているタイミングで、対象として石炭、ウラン、地熱が候補に挙がっていた。中でも唯一の国産資源で着手が容易と考えられた地熱開発を最初にスタートさせ、同室で最初の地質・物探屋(?)だった私がいきなり地熱探査担当者になった。

通常の会社では、有識者とか実務経験者を社外から連れて来て新人をOJTで育てるとのが当たり前だが、出光にはそういう発想はなく新人から人材を育てる方針であった。本社着任一週間後に定規と赤ペンとを渡されて、全国から36km×36kmの探査範囲を13ヶ所選ぶことになった。地質調査所等の限られた資料はあったが、殆ど零からのスタートであった。探査・開発の話しは別の機会にお話します。

出光として初めての生産井TT-2号 噴出試験状況 大分県玖珠町滝上 1983年

鹿児島県菱刈金鉱山(住友金属鉱山)見学 1990年
 同鉱床は熱水型で地熱鉱床とほぼ同じ

北米出張の頃

そんな、実力が全く無いのにやる気満々であった無知な私には失敗談には事欠きません。まず私が“Mr. How come”と呼ばれるようになったのは・・・。全国から有望な地熱開発地を評価・選別・探査開始するのに当たり、急遽全員米国技術者の専門コントラクター会社グループ(請負業者)が編成されることになった。そこで出光の地下探査P/Jの方針説明と専門資料の翻訳作業等が必要となり、消去法で図らずも私が単身渡米することになってしまった。秋田弁と名古屋弁には大いに通じていたが、英会話は中学生レベルなので躊躇はしたが、学生時代に単独一ヶ月無銭に近いソ連旅行をしたので何とかなるだろうと腹を括って渡米したのである。

さて道中の機内で隣席の方が当時のC計算機の常務さんで、出光は新入社員を単独で米国出張させるとは聞きしに勝る凄い会社だねと言われました(本人は何が凄いのか全く理解できず) 。一日6便の秋田空港の規模しか知らない私は、巨大なロス空港に着いた途端に預けた全ての荷物を紛失する災難!会議の時間が近づいていたため、ヨレヨレの着の身着のままタクシーで奇跡的にLA郊外の探査コントラクター幹事会社に到着することが出来た。技術者会議は既に開始されており、当時はスライドプロジェクターを使っており部屋の中は真暗、時差呆けと初めて聴く専門技術者同志(ドクター)の会話は好い子守歌、ウトウトしていた。あろうことか司会者が気を利かせて突然私に質問するではないか!発注者である出光から送られてきた技術者であれば英会話は当然堪能なはず・・・。” Mr. KONDO, How come —? “との質問であった。How come は米口語で軽いWhyであることは知る由もなかった。中学英語を小さな脳味噌中で駆使し、脈絡がないなぁと訝りながらも「貴兄はどうやってここまで来たのか?」と聞かれているのだと断定し、しばらくの沈黙の後で自信に満ちた英語で” Of course, by Japan Air Line “と言ってしまった。冗談と思われたのであろうか本人の予想した反応とは全く異なる大爆笑に包まれ、出光はさすがに英語堪能な若者を送ってきたと大いに誤解された訳です。まあ、この誤解は1日とは保ちませんでしたが。その後2ヶ月間の滞在中はアホな奴が日本から来たと有名になってしまい人気者で、お陰で仕事が大いに捗ったということにしておきます。

帰国時には既にこのエピソードは本社に伝わっており、上司の報告時には怒られると思ったら、逆に優秀な技術者達の心を掴んだと褒められました。好い時代でしたね!新入社員時の恥ずかしい話しはまだまだ沢山あり、ロスの事務所から、銀行員でサンフランシスコ在住の兄の家に土日を利用してタクシーで行こうとしたことです。ご存知の通りロス-シスコ間は500マイル(800km)あります。中高生の頃に使った帝国書院の地図表示ではロスとシスコは赤い都市マークがくっ付いており、東京-川崎間のイメージでした。そこで、秘書にタクシーを頼んで行先を告げたら驚かれて笑い話を作ってしまいました。

石油開発 本荘沖基礎試錐 第五白龍号 1995年

【寄稿】近藤充(GS52,GS54M)

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