私の思い出話(極楽とんぼ ~風任せ人任せ~)
鉱山地質学科在学中
学部時代はサッカー部活動に全精力を注ぎ込み学業は全く疎かでしたが、貧乏チームながら強く、東北ではNo1チームで県の天皇杯、国体の代表にもなりました。
しかし、3年になると夏休中野外調査に入り地質学の手解きを受ける進級論文がありました。私は籤で最悪の阿仁地区の地質図を作成することになり、いきなり奥羽山脈の真っただ中に一人放り込まれました。マタギ、熊と蝮しか居ない山中で野宿するしかないと途方に暮れておりました。幸い閉山間もない阿仁鉱山事業所の御好意で電気もなく廃墟に等しい体育館のご提供を受け、一ヶ月間単独で自炊し、山菜のミズ入りの味噌汁ばかり飲んでいました。
当該地区は典型的な脊梁グリーンタフ地域で、加えて金鉱床胚胎地区なので各種の変質や構造運動の複雑さが半端ではなく、授業もまともに出ていない自分には全く歯が立ちませんでした。幸いグリーンタフ地質に詳しい沓澤先生が担当教官で、「出来の悪い学生ほど可愛い」という先生の壺に嵌まったおかげで、何とか論文の体裁を整えて無事進級しました。
卒論も同様に沓澤先生の泊まりがけでの現地指導を受け、田沢湖南岸の構造地質学的調査を行いました。毎朝、露頭を前にして、まず生活態度の悪さの小言をいただき、次に口頭試問の連続で徹底的にしごかれました。入学して初めて地質学に真面目に取り組むことになりました。先生のお陰で何とか卒論をクリアしました。
大学院在学中
地質調査という秋田での山歩きが気に入ったのと、家庭の事情という薄弱な理由で大学院に進学させていただきました。
大学院は通常は同じ講座に行き研究するのが普通ですが、応用地質学講座であった主任教授加納博先生の研究目的にそぐわぬ為(本当は出来の悪い学生は不要)、乗富先生の物理探査講座に頼んで拾っていただきました。「君は大学院に行くのではない、2つ目の学部に進学したと思いなさい」と諭されました。(釘を刺された。)
修士時代は狐崎先生(S波検層の権威)に重力探査と解析を専攻することを許可されました。
先生の教育方法は徹底しており、測定する為の電子機器類や装置は可能な限り自作させられ、このことは後年の物理探査主体の地熱探査で大いに役立ちました。
その中で思い出に残るエピソード゙は
① OPアンプ製作
いきなり、人工地震波観測P/Jに参加を命ぜられ、電子回路無縁の私がOPアンプを作らされることになりました。TI社製の当時最新型のアナログICを使い、簡単な回路設計と抵抗、コンデンサーの選別と基板への半田付けであちこち火傷しながら製作しました。(地質学専攻で電磁気学や弾性論などを学ばせるのは余り聞いたことがありません。)
その甲斐あってか実際の五城目ポイントでの測定では、偶然中国の唐山地震(1976年、7月28日 M7.5の巨大地震 死者60万人以上、文化大革命中で機密扱い)の波形を目の当たりに見ることが出来ました。紙チャートに描き出されヘペンが振り切れんばかりの雄大な長周期波形は余りにも美しく、口を開けて見とれておりました。同時に悲惨な災害が起きているとはつゆ知らず・・・。
② 重力計LaCoste & Rhomberg G-308
同重力計は当時国内にも数台しかなく大きさは自動車のバッテリー程しかないのですが、μgalの精度まで図れるその性能の高さから当時の価格で500万円だったそうです。
性能の高い分、地球中心からの距離である標高の精度が30cmで効いてきてしまい、GPSの無い当時は全測点での標高測量が必要で気圧変化を使うなど大変に苦労させられました。
修士論文は「田沢湖の成因」を目指したが、一学生にはフィールドが大き過ぎ、同湖西方、桧内村、松葉堆積盆地の精密地質調査と重力探査解析を行いました。
狐崎先生のライフワークである秋田駒ケ岳の定点重力観測のお手伝いしたことは良い思い出になっております。サッカー部で培った体力でお役に立てたかもしれません。
【寄稿】近藤充(GS52,GS54M)