◇◇◇ シリーズ「思い出話」(Season 2) 「父と昭和東南海地震」◇◇◇

父と昭和東南海地震(1944年)

大地震による災害で歴史が変わった例としては安土桃山時代の天正大地震(天正14年、1586年1月16,18日)は有名です。震源は未詳なのですが、当時の近畿、東海、北陸に掛けて発生した甚大な被害状況からマグニチュード8クラスの巨大地震だったようです。

天正12年(1584年3-11月)の小牧長久手の戦いで辛くも引き分けに持ち込んだ徳川家康に対して、片や面目を失った豊臣秀吉側は徹底的に相手を根絶すべく20万の征伐軍と長浜城に兵站基地の準備を開始しました。しかし、本地震により長浜城は壊滅的な打撃を受けて機能を失い、かつ家康の領地でも大被害を被ったためにお互いに戦どころではなくなってしまいました。その後、秀吉は家康に対して融和策を取ったため徳川家は存続し、幕府を設立する経緯は皆さんご存じのとおりです。天下を取るような人は大災害でさえ味方につけるようです。

前置きが長くなりましたが、父の人生を語るうえでは掲題の昭和東南海地震の発生は大きく、翻りまして私の生は受けられなかったと思います。

父は大正10年(1921)生まれのいわゆる戦中派で、愛知県大治町で貧乏工員の10人兄弟の長男として生を受けました。尋常小学校の学業成績が良かったため愛知一中(現旭丘高校)に「足長おじさん」援助を受け卒業しました。(同級生に生涯無二の親友となったのが、SONY創業者の盛田昭夫さんでした。機会があればお話しいたします。)

しかしながら家庭の経済状況からして卒業後の進学は無理で、東京勝鬨橋近くの石炭販売店に丁稚奉公させられます。間もなく太平洋戦争開戦の足音が近づき徴兵年齢にも達しました。そこで、陸軍の将校になれば兵卒より生き残れる確率が高いし、牽いては勝利した暁には南方で自分の叔父さんのように学歴がなくても商売で一旗揚げられるのではないかと考え豊橋の予備士官候補生となります。

少尉任官後に豊橋の連隊から中国南支に出征し、機関銃中隊長としてクリークの中に首まで一週間浸かったりして激戦を戦いましたが、砲弾の破片を足に受け内地に送還され療養後連隊に復帰します。このあたりからミッドウェー海戦、ガタルカナルでの連敗で米国の反抗が本格化して参りました。ついに同連隊の半数がサイパン島への配備を命令されました。しかし連隊長の父への人物評価が芳しくないため、国内に残置され戦死を免れました。因みに、尉官クラスの将校は全員亡くなられたそうです。

(戦後、生還された連隊長と会う機会があり何故連れて行ってくれなかったのかと尋ねる機会があったそうです。連隊長曰く「貴官のように常日頃から上から(俺)の命令に従わないような下級将校は激戦の予想される戦場へは連れていけない。状況によっては、何時後ろから貴官のような奴に撃たれるかもしれん、従順で命令を聞く将校を選んだ。」。)

直後に岐阜の連隊へ転勤となります。待っていたのは戦況悪化し始めたフィリピンへ3,000人の兵士や物資を上陸させる輸送引率隊長の任務でした。全国各地の連隊を下関に集結させて船団を組むため、同部隊は岐阜市民の歓呼の中颯爽と岐阜駅に行軍し列車に乗り込みました。しかし、同日昭和19年12月7日13時36分にM8クラスの昭和東南海地震が発生し、東海道・山陽本線は全く運行が出来なくなってしまいました。しかし、他県からの連隊派遣軍が既に集結していたため、乗船への目途が立たない父の部隊を待っておられず船団を編成し先に出港してしまいます。

それらの兵士達を乗せた全輸送船(10隻)は米国の艦載機や潜水艦による攻撃を受け殆ど沈められたそうです。例え運よくフィリピンに上陸できても最終的にはゲリラとの戦いで90%の方が亡くられました。ここまでで父の悪運が強いと思われたかもしれませんが、これは彼の地獄の体験のほんの入り口に過ぎませんでした。

(この昭和東南海地震は戦時中であったため殆ど国内外に情報発信されませんでしたが、熊野灘沖で起きた巨大トラフ地震でM8.0、津波波高8-10m、死者1,300人でした。1946年12月21日(昭和21年)には連動した南海道地震M8.1が発生しました。)

その後、列車の運行が再開されると次の船団が同様に再編されることとなり、晴れて(?) 父の部隊3,000名は輸送船でフィリピンの戦場を再度目指すことが出来ることになりました。

下関港を出港し台湾の遥か沖合に差し掛かったころ米軍の艦載機が次々と襲来しました。輸送船の3,000人兵士達は船内・船底で死にたくないと思って軍装を付けたまま一斉に狭い甲板に群がり上がってきます。右舷から機銃掃射を受けると甲板のひしめきあった全員が本能的に左舷側に移動する度に船体は大きく傾ぎ、押される勢いで一回に数百人が重い軍装、小銃を持ったまま海中に没してしまうという有様で船内大混乱、阿鼻叫喚状況となりました。未だ、25歳であった父は如何ともし難い状況下に死を覚悟し引率隊長室で静かに運命を待っていたようです。

そこに「隊長さん、このままやられるのは悔しいではないですか!船首付近に高射機関銃があるから反撃してください。弾薬は私が運びます。」と言ってきたのは小学校出たばかりの輸送船の若いボーイでした。早速二人は混乱窮まる船内をやっとの思いで移動し、銃座に辿り着き反撃に出ますが、高速で飛来攻撃してくる艦載機に当たるはずがありません。間もなく近くに爆弾の直撃を受けるに至り、二人とも銃座ごと海に吹き飛ばされます。乗っていた輸送船はあっという間の轟沈だったそうです。

気が付いたら海面を漂っていたのは同乗の数百人で、友軍の僚船にも見捨てられ外洋に置き去りにされたのです。そこで浮になる漂流物を探し全員で手を繋ぎ輪になりました。そのまま浮いて流されるまま三日三晩持ちこたえましたが、台湾近海はサメの宝庫で襲われたり、脱落するなどして残ったのは30人となり四日目の朝を迎えます。その時に台湾の島影が望見されて全員一斉に泳ぎ始めました。泳ぎが得意であった父でもやっとの思いで花蓮港に泳ぎ着きます。疲労困憊・瀕死の状態で心身ボロボロになったせいで、辿り着く直前に不覚にも海水を飲んでしまいます。

ところが、大いに甘い味がするので、死に対面する時は鹹水でさえ甘く感じるのかと思ったそうです。しかし、救助された後にその話をすると、直前に空襲があって港の近くの大きな倉庫が爆撃されて貯蔵されていた大量の砂糖が港内に流れ込んだためだと周囲に大笑いされたとのことでした。

その後、台湾で父は再編成され米軍の上陸に備えましたが、米軍は20万人以上の精鋭の陸海軍がいる同島の攻撃は避けて飛び石に沖縄へ向かったという訳です。

戦争当時、父以上に運命に翻弄された方や酷い目に遭われた方は多いと思います。しかし、悪運の強い父親の存在がなかったら今の自分は無かったということになります。

大きな活断層露頭を見ると、これが原因で発生した地震で人生の変更を余儀なくされた人が如何に多かったのだろうかと思うことがあります。

【寄稿】【寄稿】近藤充(GS52,GS54M)

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