◇◇◇ シリーズ「思い出話」【第2回】「これは、死ぬ!!」と覚悟を決めた瞬間 ( 1 ) ◇◇◇

ガス坑井の坑口設備故障による猛毒の硫化水素含有ガスが噴出

(海外はU.A.E.アブダビ洋上にて)

約40年前、ペトロレアム・エンジニア(石油技術者)となるべくトレイニー(研修生)としてペルシャ湾でのガス井産出量試験作業中のことである。ガス貯留層からガスの流出通路を確保するために、岩質の炭酸塩岩塩酸を溶解するために塩酸を使用するのだが、塩酸を坑井に注入作業中に、坑井上部設備から突然地下ガス流体が吹き出てきた。同時に流出した硫化水素を検知した警報器がワンワン鳴り出し、坑井近くにいた作業員全員が緊急退避した。硫化水素ガスは少し(500-700ppmのオーダー)吸っただけで、死にかねない危険物である。そのため、昔はカナリアが入った鳥かごをそばに吊るして置いたそうだ。カナリアの声が聞こえなくなると、硫化水素を吸って死んだ兆候として危険を察知する。その吹き出している硫化水素含有ガスを止めるため、緊急に暴噴装置を遠隔操作で作動させたが故障で動かない。オーナーのアブダビ国営石油会社(ADNOC)に状況を無線連絡したのだが、そう簡単に次の応急作業の了解が取れない。抗井元から少し離れたところに避難している我々も「卵の腐った臭い」を感じ始める。上司や現場首脳がリグ最上階の中央制御室で国営石油会社との無線連絡を取っている、一方、私はリグ中階にいて現場状況を中央制御室の上司に状況伝達する役目となった。アコモデーション(居住区)の一番階下にいるボーイやコックのインド人達からは、「臭ってきている、まだ指示がないのか。我々は死ぬのか?」(硫化水素は空気より重く下位に滞留する)と恐怖の声が響き、それを私は上に伝える。しかし、もう少し待てとのこと。その時、久々に”死”という字が頭をよぎった。

その数分後やっと国営石油会社から噴出停止と坑井を殺す許可が下りた。それで、中央制御室に行ってみると誰が噴出している硫化水素含有ガスを止めに行くかの議論となったいた。オペレーター側で行く人はいないし、トレイニーの身である前途ある私なども行かない。その時、生産テスト業者で私とは遊び友達のイギリス人ロッド・ジョンソンが、映画のヒーローよろしく、「俺が行って止めてくる」と申し出てきた。一人、酸素ボンベを背負って坑口元のクリスマス・ツリー(坑口装置)によじ登り、暴噴装置を手動で閉鎖し、無事ガスの噴出防止に成功。自己犠牲の行動がかっこよい。戻ってきた彼に対して、全員、拍手喝采であった。

実は、この英国の友人とその同僚2人を日本に呼んで、実家の秋田県矢島町まで連れて行ったことがある。上野駅から特急”いなほ”で、新潟・山形経由で秋田に入る間、電車から雄々しい姿の鳥海山が右手にみえたり左手に見えたりするので、一体どこに行こうとするのかと不思議がっていた。実家では、今は亡き母親が結構英語を話すことができ、英国人相手に結構通じているのにはびっくりした。このロッドは、アブダビ市街の私のレジデンス(単身寮)によく遊びにきていた。当時、私はグラムフォンのカセット、特にチャイコクスキーとラフマニホフをナカミチのカセットプレーヤーとJBLのスピーカーで聞いていた。彼は「よくもまあ、こんな暗い曲をきいているもんだなあ」とラフマニホフをけなしていたが、15年ほど前に、世間を賑わしている辻井君のラフマニホフ”ピアノ協奏曲2番”を聴けばどう思うだろうか?

1984年8月
UAEアブダビ洋上,サター油田
写真は筆者

掘削リグ:アルギャラン
(ジャッキアップ型)
アブダビ・ナショナル・ドリリング社所有

【寄稿】佐藤晶彦氏(BS53M)

日揮株式会社(現出向先:日本エヌ・ユー・エス株式会社)

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コメント

  1. 坂本憲仁 より:

    海外(それも文明国からは想像も出来ない過酷な環境で)で体を張って資源開発に取り組んだ北光会OB達の活躍談は、今後海外雄飛を目指す後輩達にも貴重な教訓になると確信しています。さらなる「思い出話」が投稿される事を期待します。

  2. 門村 逸朗 より:

    先輩方が世界中で活躍し
    今の世界のエネルギーが有るのですね